民芸と農民美術


 私達はよく「民芸」と「農民美術」との混同に逢う。考えると無理もない

のであって、この両者の間には似通いがある。広い意味で農民から生まれる

固有の工芸は民芸即ち民衆的工芸の一部に入るべきものがあるから、この混

同が起こるのも当然である。だが日本で「農民美術」と云えば山本鼎氏など

の唱導する運動を指して了う。それで同氏等の仕事と私達の仕事とはしばし

ば混同されて話題に上る。一般の人々はその間に別にけじめを付けない。こ

れは問題を精細に省みる習慣のない大衆、又は専門でない分野の問題に就い

て、ぼんやりした概念より有たない批評家達が抱き易い見方である。恰度

「社会主義」というとすぐ危険思想と同一視したり、又は共産主義もギルド

社会主義も何もかもこれに入れて一つに見て了うのと同じである。併しそれ

等のものの差が専門的立場からは随分はっきりしたことなのと同じように、

民芸と所謂「農民美術」とは決して同一なものではない。どちらかというと

全く異なる態度から出たのであって、若し同じものなら、既にある農民美術

に対して民芸の運動の起こる必要がなかったであろう。尤も民芸の運動は農

民美術に敵対して起こったものではない。今まで互いに一つの論争もしたこ

とがなく、又吾々も農民美術の仕事を一語でも批評したことがない。だが不

注意にも両者が一緒にされて了う場合が多いので、この際一言吾々の考えを

述べて、立場をはっきりさせておきたい。

 私が農民美術の存在を知ったのは、まだ学生の頃であった。それ故山本鼎

氏の努力も随分永い歴史を重ねているわけである。恐らく二十年余りにもな

るであろう。始められて二、三年後の時ででもあったろうか、私は友達と信

州を旅した。汽車が小諸あたりを過ぎた時、窓越しにふと眼に留まったのは

樹立の向こうに見える異様な屋根の形であった。勾配のきつい洋風なしゃれ

た屋根であって、周囲の農家とは似ても似つかぬものであった。誰かの別荘

かと思ったが、同行の人から、あれが山本氏のやっている農民美術の工房な

のだということを聞いた。私は一寸面食らった。なぜなら農民美術というか

らには、その土地土地の農民の手から生まれる地方的な土くさい作物なのだ

と思っていたのである。所が連想したものとは違って、建物が馬鹿にきどっ

た洋風の形である。だがこの謎はそれ以後度々開かれた農民美術展覧会を見

て、はっきり判った。陳列されるものはロシアとか、スカンジナビアとか、

外国の品の模造品が非常に多く、働く人にもルバシカなど着ている姿も度々

見かけた。出来た品を見ると純日本のもの、純農民のものは殆ど見当たらな

い。仕事場が信州の田舎に在り乍ら、佐久郡の農家とは縁のない洋風に造ら

れているのは、仕事の性質をよく現しているのだと始めて判った。

 それ故農民美術とはいうが、私達の考えている農民美術の範疇に入って来

ないものが大部分である。それは外国好みの洋画家が、外国の農民美術から

美しいと思うものを選んで、日本の田舎の青年達に模作させているのである。

出所は都会の西洋通な美術家の頭に在るので、田舎から必然に生まれて来る

農民の作品ではないのである。寧ろ日本の田舎に伝わる伝統や材料や手法を

始めから無視して、遠い異国の百姓が作った面白いものを真似させているの

である。洋画家趣味とでも呼んでよいのか、いつも一種の異国趣味が附きま

とっている。作る田舎の青年達も、寧ろ文化人の気持ちになって、しゃれた

作品を作ることを悦んでいるように見える。

 だが真の農民美術は本来そんなものでは決してない。都会的な美術家の美

意識とは寧ろ縁遠く、極めて地方的な、固有な実用品が主である。それは本

当の田舎の生活から生まれ、田舎の人々に実際使われる品物なのである。所

が日本でいう所謂農民美術は結局「生まれたもの」ではなく「作られたもの」

になっている。それ故殆ど地方的な特色は現れていない。従って農民美術と

いうより却って都会美術といった方が当たっている位である。仕事を田舎の

人にさせたというだけで、その土地自身から発生したものが殆どない。

 その結果日本の所謂「農民美術」には、趣味品が多く、実用品が少ない。

農民美術といえばすぐ玩具が連想されるほど「おもちゃ」が多いのはその展

覧会の一特色である。この現象は必然な結果なのであって、元来都会の美術

家の嗜好から眺められた趣味品である。それには実用品より玩具品の方が遥

かに気持ちに合う。これは何も農民美術の傾向ばかりではない。近時副業奨

励で各地から出来て来るものを見ると、大部分が玩具である。それは同じよ

うに指導者が都会で教育を受けた者が多く、而も都会人の嗜好に基づいて製

作したものが多いからである。副業奨励で趣味品を避けた場合を殆ど見たこ

とがない。それで農民美術と名のるものの特色を二つに数えることが出来よ

う。一つは地方色を有たないことである。第二は実用品を主としないことで

ある。吾々はかかるものを正しく農民美術と呼んでよいかどうか。不思議な

矛盾を其処に感じないわけにゆかない。

 尤も凡ての運動は意識に発し、その意識が都会人に最も多く養われる限り、

地方的仕事も都会と浅からぬ交渉を有つであろうが、その意識が若し地方色

を尊び、土地に萌えた材料や手法を理解し、作物を土地から発生せしめるこ

とに努めるなら、結果は異なる場面を齎らすであろう。併しかかる客観的な

努力を有たず、只主観的な嗜好で凡てを支配しようとするなら、地方的な何

ものも起こりはしないであろう。そうして実用的なものは殆ど二次的となっ

て、娯楽品が主体となるであろう。併しそれをしも農民から生まれた美術と

呼び得るであろうか。ここに日本の農民美術の運動に飽き足りない所がある。

 併し私が知っている純正な農民の品物には感歎すべきものが豊富にある。

それは常に地方的であり、実用的である。あのロシアは沢山の例を示してく

れる。あのスカンジナビアは無数の品を有っている。あの支那も、そうして

吾が日本にも、固有の農民美術は豊富である。併しそれ等の凡ては、外国の

模造品である場合がない。模作しても消化し切らずば、農民美術となって現

れはしない。又それ等のものは単なる趣味品では決してない。彼等は感興で

作るより、もっと真面目に日常の器物を作ったのである。あのストックホル

ムに在る世界最大の農民美術館を見られよ。陳列せられてある何万点という

驚くべき蒐集は、実に地方に発し、実用に発し、伝統に基づいたものばかり

であって、思い附きや趣味の所産では決してない。それ等の品と日本での所

謂「農民美術」とは寧ろ血筋が違う。誰が言い初めたのであるか「農民美術」

という。'Peasant Art' の訳字ででもあろうが、実際美術くさい品で、工

芸の位置に満足しないかのように見える。美術を標榜するから、実用に基づ

くものを厭み嫌うのである。だが真の農民の作品は何より工芸品なのである。

美術家きどったものでは決してない。このことはとくと反省する必要がある。

 ここで私は民芸の趣旨に就いて語っておこう。そうしてそれが如何に所謂

「農民美術」と異なるかをはっきりさせておきたい。若しも作品が本当に農

民自体から生まれて来るならば、又若しそれが地方固有のものとして発生し

て来るならば、それが私達の求めている一つのものであるのは言うを俟たな

い。この意味で民芸と農民美術とは深い血縁の間柄である。併し嚮にも書い

たように日本での「農民美術」の運動は、結果から見て真の農民の産物では

ない。兎も角今までの十数回の展覧会は如何にそれが日本農民美術と云えな

いものなのかを告げている。恐らく山本氏の趣旨にも添わないものなのだと

さえ思われる。

 私達は出来るだけ作物を「美術」の位置より「工芸」本来の性質に戻そう

としている。民芸の「芸」は私共の意味では工芸の「芸」である。工芸の立

場であるからには、作物が「用」に発するのを本願とする。「用」は日常の

用品に於いて最もその機能を発揮する。だから吾々は日用品に作物の主な対

象を求める。私達が殆んど玩具の領域に触れていないのは農民美術がそれを

主とするのと大変違う。私達も余力さえあれば玩具を生むようにしたいと思っ

てはいるが、今は二つの理由から、そこに近付いてゆかない。第一は実用性

の上に民芸を発足させることが一番本格的だと考えられるから、趣味的な玩

具は二の次にしているのである。第二に玩具や人形で真によいものを作るの

は至難の技であって、伝統にでも依らない限り、美しい品を生むことは非常

にむづかしい。特に玩具は地方色を活かすべきだと思うので、事が一層困難

になる。農民美術が示してくれる数多くの玩具人形の如きは、真の郷土玩具

ではないのであって、吾々の念願からは凡そ遠いものである。かかるものを

生みたくない故に、この領域は後回しにしている。特に北でも南でも同じよ

うなものを作らせては意味をなさない。近頃農家の副業というと、すぐ玩具、

人形を作るが、出来たものは惨めである。この仕事が如何に至難なものなの

かを知らない所から来る悲劇である。それ等の品はたかだか「思い附き」ぐ

らいに止まっている。「思い附き」に作物を托すほど危険なことはない。そ

れ故私達の得た結論は実用への忠誠ということである。これより確実な工芸

の基礎はないというのが吾々の考えである。理想は未だ遠いとしても、その

実現のために能うる限り努力を献げねばならない。「用途への誠実」こそ民

芸の道徳でなければならない。これは又優れた古作品の基調でもあったと信

ずる。

 それでかかる実用品を作る上に、又その自然な発達を促す上に、地方の伝

統を活かすことが一番正当な又自然な道だと信ずるのである。この意味で嘗

てその土地にどんなものが発達したか、又今尚どんなものを続けて作ってい

るか、どんな職人が残っているか、どの地方がどんな材料に恵まれているか、

どういう手法が残っているか、これ等のことを常に念頭に置いている。私達

はそのために基本的な資料を蒐集し、調査することを出来るだけ努めている。

 私達からすると、例えば信州の農民にロシア風の品を作らすより、信州で

発達した手法を調べ、土地で得られる材料を省み、固有の伝統を活かすよう

にする方が本格的なやり方だと思う。かかる意味で私達は洋風のものより

「日本的なるもの」に重点を置きたい。尤も西洋のものを毛嫌いする必要は

なく、取り容れてよいものは取り容れたい。只その場合充分咀嚼し消化出来

る事情の下で取り容れないと、結果は単なる模造品に終わって、仕事が中途

半端になって了う。このことは互いに気を付けたい。尤も西洋の手法や材料

に近似するものが日本にあるとしたら、咀嚼は容易であり、自然である。た

とえば英国で発達したスリップ・エアーの如きを、出雲の布志名で試みるの

は極めて自然である。材料が殆ど同一であり、その絞描きの手法に類似した

ものが日本に昔から行われているからである。これで布志名という地方的特

色を更に拡大することが出来る。かかる一致がない限り、西洋を模倣するこ

とは、仕事として本格的な道ではない。西洋のものを取り容れるなら、それ

を活かすべきであって、それに死んではならない。併し事実は後者の場合が

非常に多い。兎も角民芸は地方性にどこまでも立ちたいのが願いである。ど

の地方も同じような都会風のものを作るのは、工芸の道として望ましいこと

ではない。

 もともと民芸は農民美術より範囲が広い。農民の作品と云えば多くは副業

的性質に限られて来る。地方の経済的発展の上に副業が重大な意義を有つの

は言うを俟たないが、工芸の道を正当に進めるためには副業に仕事を止める

わけにゆかない。それはいつか正業として進むべきであって、それには充分

専門的訓練を必要とする。本当の仕事は片手間には仲々出来ない。民芸を単

に副業的な仕事に止めることは矛盾である。副業として活かしてよく、生業

として更に活かしてよい。所謂「農民美術」に素人臭いところがあるのは、

奨励すべきことではない。それも一種の面白味を出すかも知れぬが、畢竟軽

い面白味に終わって了う。本来工芸は技芸であって、仕事に長い訓練を要す

る。それは当然玄人の仕事に入らねばならぬ。昔の半農半工は単に素人の域

に止まってはいない。今の農民美術はその半工にも至っていない感が深い。

これでは仕事に本格的なものは出て来ない。民芸は当然素人の域を脱せねば

ならない。

 民芸も農民美術も共に「民」の領域から生まれる作物たることに於いて一

致はするが、仕事の立場や方法や目的が如何に違うかは、何より物が語ると

思う。それ故今までの所では、一番縁があるようでいて甚だ縁が薄い。農民

美術の元来の趣旨は尊敬すべきものがあったのだと思うが、作物への理解に

於いて、目標に於いて、道程に於いて、結果に於いて、民芸と際立った差異

があるのを気付かないわけにゆかない。一般の人達がこれを混同するのは、

事を熟知しない所から起こる推測に過ぎない。

 民芸の発達には三つの基礎が要る。第一は日本の固有な伝説的作品への注

意である。日本の民芸は何よりも先づ日本的なものでなければならない。続

いては注意を東洋全体の又西洋の卓越した品物へ拡大する要があろう。吾々

はこれに依って極めて多くの暗示を得、どうして作物を正しきもの、美しき

ものにさせるかの法則を学ぶ。第二には現に日本の各地で如何なる民芸が作

られつつあるかの考察である。これに依って吾々は各地の材料と伝統と手法

と種類とを知ることが出来る。これを更に活かして前に進めることこそ民芸

の一番自然な発展である。第三に作物の用途を出来るだけ現代の生活に役立

つものにさせねばならない。徒らに古い形式を固守することは禁物である。

併し時代全体の美意識が衰えた今日では、職人自からに充分な創作力を予期

することは出来ない。作物の変化に対し、工案に対し、美に理解ある個人作

家の指導を得ることが必要である。作家と職人との協力なくして、仕事を正

しく発展せしめることは出来ない。民芸はどこまでも遊戯であってはならな

い。趣味や思い付きに止まってはならない。もっと工芸としての正統な道筋

を踏まねばならない。それだけに一日で出来る仕事ではない。


                   (打ち込み人 K.TANT)

 【所載:『工芸』 51号 昭和10年3月】
 (出典:新装・柳宗悦選集 第7巻『民と美』春秋社 初版1972年)

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